| 2004年 8月 12日(木) |
ピンクの部屋で
久しぶりの野乃香の部屋は、相変わらずピンクとレースとぬいぐるみに溢れていた。
以前より雑然とした印象のその部屋で、フリルに埋もれるようにして野乃香は私を待っていた。
「いらっしゃあい、天音ちゃん。」
抱えているのは巨大な熊のぬいぐるみ。
悔しいけれど、慎吾が私にプレゼントしてくれた慎之介くんよりずっと高級そうだ。
野乃香がひらひらさせて招く指先に、国見家のヒスイが嵌っている。
私は少し眉を顰めると、すすめられた椅子に座った。
「天音ちゃん、目が赤い。もしかして泣いちゃったの?」
ふっくらしたほっぺたに指を押し当てると、野乃香は大きな仕草で首を傾げた。
こんなあざといような仕草も、野乃香の愛くるしい顔立ちには良く似合う。
「ええ、たくさん泣いちゃいましたよ。あなたが引っ掻き回してくれたおかげです。」
やつあたりなのは分かっていても、つい言わずにはいられない。
「え〜、野乃香のせいってなに〜? あ、もしかして、この指輪のこと〜?」
野乃香はうっとりと手を翳すと、ヒスイを光にすかすようにした。
「まだ野乃香にはちょっと似合わないよね〜。早くこんなシックな指輪が似合う、おばさまみたいな素敵なレディーになりた〜い。」
私のここ数日の悩みのもとを、実に簡単に受け入れてしまう。
「野乃香…、私と婚約したいと言うのは、あなたの方からの提案だと聞きました。本当ですか?」
「うん、本当だよ〜。天音ちゃんと野乃香、お似合いだと思わない〜?」
野乃香は熊をぎゅっと抱きすくめると、軽い調子で笑った。
その仕草がどうにもちぐはぐな感じがして、私は野乃香を見つめてしまう。
「天音ちゃんはうんと素敵だから、早く唾つけとかないと、誰かに取られちゃう〜。」
「野乃香…、そんな言葉遣いがおじいさまのお耳に入ったら、お嘆きになりますよ。」
「だってね、野乃香、天音ちゃんがいいの。他の人はダメなの。」
ほんの僅か、いつも笑っている印象の野乃香の瞳が潤む。私は違和感を禁じえない。
いつでも久遠院家の一人娘として下にも置かれぬ扱いを受けてきた野乃香は、自分の望みが叶わないことなどないと思っている子だった。
たとえばこんな、結婚を迫るようなおねだりでも、野乃香には飴玉をねだるのと変わらないはずだ。
こんな真剣な目は、愛らしい野乃香には似合わない。
「野乃香、私はあなたのことを嫌いなわけじゃありません。でも、いきなり婚約だなんて、唐突じゃありませんか。
残念ですが、私はあなたの事を恋愛対象として考えたことはありません。」
「うん、野乃香もないよ、そんなの〜。」
すかさず返される答えに、思わず私は口を噤んでしまう。
「だって、結婚と恋愛は別でしょ。野乃香の久遠院と、天音ちゃんちの国見家がお似合いだって言ってるんだよ〜。」
「そんな…、あなたもそんな、おばあさまみたいなことを言うんですか…。家の為に跡取を残すためだけの結婚が幸福だなんて…。」
「あ、天音ちゃんも、おばあさまのお話伺ったんだ。それで天音ちゃん、そんな怖い顔してるんだ〜。」
「当たり前でしょう。あんな、家のためだけの結婚なんて…。」
「天音ちゃんは、そう思ってるの? 甘いよ、天音ちゃん、甘々だぁ〜。」
野乃香は両手を熊から放して上に向け、肩を竦めてフルフルと首を振った。
…その妙な真似は一体なに?
「野乃香はおばあさまのお気持ちわかるな〜、うん。」
「だから子供が欲しかったんでしょう。」
「違うよ。きっとおばあさまは本当におじいさまのことが好きだったんだよ。だからおじいさまと胡蝶さまを引き離して、おじいさまがそのために辛いお顔をされるのが許せなかったんだよ。」
「…………!」
子供だ子供だと思っていた野乃香が、こんなことを言うなんて…。
「野乃香、わかるな〜、野乃香だって、好きな人いるもん。その人が野乃香の為に辛い顔してたら、やだよ〜。それは野乃香の好きな人だってきっとおんなじだと思うのね。
だから野乃香は幸せな顔をしているために、天音ちゃんと結婚したいの。」
「…その理論は、結末に至るまでの道筋がわからないんですが…。」
「うーん、あのね、野乃香、皐月ちゃんが好きなの。愛してるの。」
「皐月ちゃん…。」
知っている。今も野乃香の机の上のフレームにツーショットの写真が飾られている、野乃香の同級生だ。
「だって皐月ちゃんは…。」
「うん、女の子なの。だから、野乃香たちがいくら愛を貫いても、久遠院のためにはダメなんだよね。
でもね、野乃香絶対結婚するの。野乃香にはその責任があるの。だから、結婚相手は天音ちゃん♪」
「だからその理論が…。」
「だってパパがやってる会社も、おじいちゃまの議員としての立場も、久遠院としての名前があってこそのものだよ〜。久遠院の血が絶えちゃったら、困る人、どのぐらいいると思ってるの〜?」
ぴょんぴょんと論点が飛ぶ、昔ながらの野乃香の話の中に、私はおばあさまの頑なさのわけを初めて見つけた気がした。
国見家の血が絶えてしまったら、国見の家を頂点とするお花とお茶の流派はどうなるのだろう。
その末端で働く人、恩恵を受けている人、それら全部の責任を、私が背負っているということだろうか。
「あのね、ある繊維業界の会社がね、もうとっても左前なんだって。本社の土地まで売っちゃって、それでもかつかつなんだって。
でもね、その会社はめったなことじゃ潰れないの。だって、規模が大きすぎて、東洋一って言う規模なんだって。そこが転覆しちゃったら、アジア中に失業者が溢れちゃうから潰れさせられないんだって。
家も、天音ちゃんちも、それと一緒だよ、多分。」
そうか。
そしてそれは、おばあさまの時代からそうだったのに違いない。
だからおばあさまは、あの活発でチャーミングなおばあさまは、家を選ばざるを得なかったのだ。
「それにね、野乃香、天音ちゃんには助けると思って結婚してほしいの。」
野乃香の言葉の語尾が延びなくなってきた。野乃香の余裕が剥ぎ取られていく。
「うーん、本当は言いたくなかったけど、天音ちゃんにも無理を言うんだから、野乃香の秘密を教えてあげる。」
野乃香は再び熊をぎゅっと抱きしめた。俯いて、ゆるくウエーブした長い髪が、野乃香の愛くるしい顔を隠す。
「野乃香ねえ、中学校に入ってすぐに、誘拐されたんだ。」
野乃香はぽつりと言った。