| 2004年 8月 13日(金) |
野乃香の秘密
「誘拐だなんて…私はそんな話聞いていませんよ!」
「あったりまえだよ。警察沙汰にしてないし、それ自体はすぐ解決しちゃったもん。そんな事があったのを知ってるのは、おじいちゃまと、パパとママと皐月ちゃんと、あとお話を聞いて下さった天音ちゃんのおばあさまぐらい。」
野乃香は小さくため息を吐いた。
「本当ならねえ、慎吾ちゃんにも聞いてもらわないといけないのかもしれないけど、野乃香どうしても勇気出なくて。」
だからゴメンナサイと、その豊かな黒髪を下げられて、私は戸惑った。
こんなに下手に出る野乃香は初めて見た。
「野乃香ねえ、その誘拐されてる4時間ぐらいの間に、がっつりレイプされちゃったの。」
思わず息を飲む私の前で、さりげなさを装った野乃香の声は、ほんの少し震えていた。
「中学校に入ってね、野乃香、お迎えの車が来るのが凄く嫌だったの。
他にもそういう子は居たけど、なんかみんなツンツンしてて、私はみんなと違う!って言ってる感じ。野乃香、そんな風に見られたくなくて、時々逃げてたの。そこを狙われちゃったのね。」
生まれついてのお嬢様である野乃香は、警戒心に欠けるところがあった。それを懸念しての送り迎えだったのに。
「細い路地に入ったところで道を聞かれてね、教えてあげようと思って振り向いたところをいきなり殴られて抑え込まれて。あんなにお稽古した合気道も薙刀も、なんにも役に立たなかったよ。」
野乃香の抱きしめている熊のウエストが不自然にくびれている。表情だけには現さない野乃香は、その熊をくびり殺しそうな勢いで抱きしめる事で、自分を宥めているようだった。
「3人いたの。倉庫みたいな所に連れ込まれて、おろしたてだった制服もビリビリに破かれて、かわるがわる野乃香に乗ってきた。髪の毛までゴワゴワなるくらい汚されて、身体中に痣つけられて、痛くて、苦しくて、悔しくて、でもどうしょうもなかった。声が出なくなるまで泣き叫んだら、あいつら笑いながら殴るのよ。歯が一本折れちゃって、ほら、この歯、刺し歯なの。」
野乃香は小さく歯を剥いた。野乃香の指し示す犬歯は、ほんの僅か、他の歯と色が違う。
「写真もいっぱい取られちゃって、フラッシュが光るたんびに、野乃香、死にたくなった。
でも、あいつらが持ってたのがアナログな普通のカメラで助かったよ。今なら携帯とかであっという間にどこにでもばらまけちゃう。
でも野乃香、当時から発信機付きの携帯持たされてたし、しばらくしたらおじいちゃまの部下が助けに来てくれた。だから写真は全然出回らなかったの。でもその頃にはもう野乃香、普通に座ってもいられないくらいめちゃくちゃにやられちゃった後だったけど。だからね。」
野乃香は、私が口を挟むのを遮るように続けた。
「野乃香、男の人が嫌いなの。怖いの。」
私は何も言えなかった。何が言えるというのだろう。
「ちょっと前まではね、野乃香、一人で外も歩けなかった。その辺歩いている男の人がみんな、野乃香に酷い事しそうに思えて。だからいつも皐月ちゃんや他の人にぶら下がるように守ってもらって、やっと何とか普通に暮らしてたの。それで、だいぶ平気になったと思ってたんだけど。」
野乃香は、今ごろ気付いたように、熊を締め付ける手を緩めた。
「この間、学校の行事で壇上に呼び出されちゃって。出席番号が日付と同じだったのね。ちょっとやばいな〜と思ったけど、とりあえず上がってみたんだ。そうしたら、回り中男の人で、怖くって、ぼんやりしてたのかな、急に腕を掴まれて、びっくりした途端にリバース。」
野乃香は薄く笑いすらしながら、吐き戻す真似をした。
「皐月ちゃんが飛んできたところまで覚えてるけど、後はなんだか分からなくなっちゃった。丸1日震えが止らなくって、その後熱出ちゃって、もう大変。だからね、野乃香、結婚するとしたら、天音ちゃんしか考えられないの。悪いけど、天音ちゃん、男の人に見えないし。」
「それは本当に悪いですよ。」
わざとゆっくりそう言ってみる。本当はそんな事、全然悪いとも思わないが、そう言った方が野乃香の負担が少ない気がした。思った通り、野乃香は青ざめた顔を少し綻ばせてくれた。
「野乃香、どうしても跡取り生まなきゃいけないけど、誰か知らない男の人の分身を生まなきゃいけないと思うだけで、気絶しそうなの。でも皐月ちゃんじゃ私に子供を授けてはくれないし、大好きな天音ちゃんなら、何とかなりそうなのね。」
野乃香は熊の頭に自分のふっくらした頬を擦りつけるようにした。
「野乃香、男の人でも天音ちゃんは大好きよ。おじさまもおじいちゃまもパパも大好きだけど、それじゃ倫理にもとると思わない? だから、野乃香に子供を授けてくれそうなのは、世界でも天音ちゃんだけなの。」
「それで私と結婚したいのですか。」
「うん。でも野乃香、皐月ちゃんと別れられないし、形だけだけどね。」
それじゃダメ?と掬い上げるような目で見上げられて、私は思わず苦笑を漏らしてしまう。
おばあさまが、人助けのつもりでお話だけでも伺ってきなさいと私の背中を押して下さったのは…こういう事情があったからなのか。
「それに天音ちゃんには慎吾ちゃんが居るでしょう。野乃香が愛のない結婚を迫っても、ちゃんと天音ちゃんには別に愛する人がいて、淋しい思いをさせないでいられるかなって思ったの。これも、野乃香の勝手な計算なんだけど。」
私は思わずこめかみを押さえてしまう。
確かに私は慎吾との仲を秘密にしてきたわけではないが、特にオープンにしてきたわけでもないのに、どうしてお隣の野乃香まで私たちの関係を知っているのだろう。
「野乃香…、どうして私と慎吾の事を…。」
「だって、天音ちゃんのお部屋と野乃香のお部屋は、お庭と塀を隔ててるって言ってもすぐお隣じゃない。天音ちゃん、そんな事言うなら、エッチの時は窓を全部閉めなよ。慎吾ちゃんがチュウする音まで全部聞こえるよ。」
…日本家屋はプライバシーの尊守には適さないとは思っていたが、そんなにとは…。
というか、きっと慎吾がオーバーアクションなのだ。
…あいつめ…。
私はため息を吐いた。この分では、疎かったのは家を空けがちな父ばかりで、おばあさまにも母にも、すべては筒抜けだったのだろう。
「分かりました。」
「野乃香と結婚してくれる?」
「いや、…結婚…して子を生すという事は、つまり、野乃香は私と…その…。」
思わず口篭もってしまう私を、野乃香はきょとんと見ている。
野乃香の事は可愛い妹だと思いはしても、一度もそういう対象として見た事はないのだ。私の方がごく普通の反応をしているに決まっている。
野乃香は不意に目を見開くと、天使のような笑顔を見せた。
「やあだ、もう、天音ちゃんてばふっるいんだから〜。」
声にいつもの余裕が戻っている。野乃香は、自分の代わりのように、熊の手足をじたばたさせた。
「今時子を生すのに無理して男女がまぐわう必要ないよう〜。元さえ提供すれば、ちょちょいのちょいで赤ちゃんの出来上がりだよう。」
「まぐわ…。」
あまりの露骨ないいように、思わず私の方が少女のように恥じらってしまう。
「だってね、野乃香、誘拐された時思ったの。野乃香なんにも悪いことしてないのに、おじいちゃまが有名だってだけでこんな酷い目に会うのなら、それを利用して、少しは良い目を見てもいいんじゃないかなって。
だからね、おじいちゃまのお名前はどんどん使わせてもらうの。どんなお医者にだって、係り放題よ。子供もうんと作っちゃう。野球とか、サッカーが出来るくらい作って、その中から一番このお家に適した子を養子に出すの。それで国見家も安泰、久遠院も安泰♪」
「…野乃香…。」
さっきまでのしんみりした話は一体なんなんだ。私は思わず頭を抱える。
まったく、おばあさまといい野乃香といい、女性はみんな逞しい。
3日も胃痛を起こしてなんにも食べられなかった私とはえらい違いだ。
「それに〜、結婚だの結納だのっていったって、どうしても嫌なら破棄すればいいんだし〜、離婚すればいいだけの話だよ〜。今時海外じゃ、王子様だって離婚するんだよ〜?
だから、とりあえず、約束だけしておこうよ〜。」
野乃香の表情が口ほどに軽くないのを見て、私はついに肯いた。
昔から私は、野乃香のおねだりに勝てた例がないのだ。
「でも、一つだけ聞かせて下さい。あなたを誘拐した不届き者たち…、彼らはどうしたんですか?」
「おじいちゃまの部下が助けに来てくれたでしょ。それでね、おじいちゃまが、もうなあんにも心配する事はないって保証してくれたの。だからね、野乃香、その点に付いてだけは安心してる。おじいちゃま、ものすんごく怒っていらしてね。」
野乃香はにっこり笑った。とても愛くるしいのに、なぜか背中が冷たくなるような微笑み。
「もうとっくに、3人とも、海の藻くずだよ。」
そうだった。野乃香のおじいさまは、日本を裏から操るという大物政治家で、黒い噂も絶えない方だった。
やはり私じゃなくても、野乃香と、彼女を取り巻く環境からは勝てるわけがないのだ。
こうしてなし崩しに、私と野乃香との婚約が決まった。