| 2004年 8月 21日(土) |
伊勢の民宿
マイクロバスとは言え窮屈な車内に閉じ込められて5時間。
トランプも一通りのゲームはしたし、雪紀の頭が痛くなりそうな罰ゲームの歌も3回も聞かされた頃、ようやく車が止まった。
「おうっ、着いたで! 懐かしの海や!」
叫んだ慎吾がスライドドアを開いた瞬間に流れ込む潮臭い風。子犬たちと白雪君までもが目をきらきらと輝かせて歓声を上げた。
目前には青い海が広がっていた。観光地の中心からは少し離れた位置にあるらしいそこは、鄙びた風情の民宿街だ。
だが、それだけに、綺麗な浜辺はまるでプライベートビーチのような静かさだ。
「へえ、良いところじゃないか。」
車から降りた雪紀が伸びをしながらあたりを見回す。
一足先に下りた佐伯氏が、黙々と荷物を下ろしている。私が黙ってその傍に行くと、慎吾が焦りまくった顔をしてすっ飛んできた。
「天音! おまえはいいからそっちの日陰で座っとき。俺が全部荷物運ぶし!」
「わあ、慎吾先輩やっさし〜い!」
送れて駆け付けた咲良と瑞樹がそんなことを言う。慎吾は片目を瞑ると、声を潜めた。
「優しいちゃうねん。こんなの運ばせてみ? 3年は文句言われるで。」
私が聞いていないと思って可愛い子犬たちにそんなことを…。
ふふふ、後で覚えておきなさいよ。
しかしまあ、荷物を運んでくれると言うなら吝かでない。私はのんびり待たせてもらうことにした。
白雪君がひょろひょろと荷物を運んでいる。
当然手伝うはずの隼人が今回は不参加なのだ。ちょっと可愛そうな気もする。
「雪紀、今回直哉と祥太郎先生と隼人はどうしたんです? 当然来る物と思っていましたが…。」
「それが、俺も詳しくは知らないんだが、隼人がらみでなんかあったらしい。連絡が取れないんだ。」
おや、隼人がらみとは…穏やかでない言いようだ。
祥太郎先生はもうすっかり隼人を手なずけてしまった物と思っていたが、一体どうしたのだろう。新学期にでも深く突っ込んで聞かなければ。
「天音! こっちやで!」
慎吾に呼ばれて、私ははっと我に帰る。
慎吾が向かっている先の、古色蒼然たる日本家屋が、慎吾のおばあさまが経営しておられるという民宿なのだろうか。
私は慌てて慎吾の後を追った。お世話になるのだ。きっちり挨拶しなくては。
すすけた引き戸の前に立つと、慎吾は呼び鈴も鳴らさずにいきなりそれを引きあけた。扉が反対側の柱にあたってひどい音を立てる。
「ばあちゃん! みんなで来たで! ばあちゃん!」
「ああ、わかっとるがな! でっかいエンジン音がしたで! 今仕込みの真っ最中や! 勝手に上がったり! 2階の10畳や!」
え? お迎えなし…?
うちのおばあさまならどんなときでも笑顔で出迎えてくださるのに…?
「ちぇっ、相変わらずアバウトやな! 客やで一応! しゃあないな、天音、上がろう。」
慎吾はこともなげに言うと、ビーサンを蹴り飛ばして上がる。私も後に続いた。
掃除はいつしたのだろう。…足の裏がざらりとした。
2階へ上がる階段は狭く、雪紀は頭を三角に切った天井にぶつけている。
突き当たりのふすまを引きあけて、慎吾はどかどかと踏みこむ。
私も後に続きかけて…思わず二の足を踏む。
この黄色いのは…本当に畳?
「どうしたんや天音。入ってこいや。ほら、座布団敷くし。」
「あの…この畳…。」
「畳?」
戸惑っているのは私一人だ。
「これ…畳替えはいつしたんですか…?」
「畳替え〜? 裏返しにしたのがもう10年くらい前やないの〜。」
伸ばしかけたつま先がまた引っ込んでしまう。
「え…だって、宿泊施設でしょう…? いろんな人が寝泊りするのに…。」
「まったく、お坊ちゃんだからなあ、天音は。」
私の後ろから来た雪紀が、私を追い越して部屋に入っていった。
「全室の部屋の畳を、半年に一遍裏返し、年に一度は畳替えなんてするの、おまえんちぐらいだぜ。」
「そ、そうなんですか…? 野乃香のうちもそうですよ…。」
あまりの衝撃に、なぜか小声になってしまう。それに気付いてちょっとむっとした。
「あなただってお坊ちゃんじゃありませんか。それにうちは、自宅にお客さまが大勢見えられるし…。」
「俺んちは殆ど洋室だ。畳なんて今時あんまりないんじゃないの?」
「はーい、俺、初体験でーす!」
咲良が元気に手を上げる。
「それにな、俺らは剣道や空手の合宿なんかで、この程度ずっと見慣れてんだ。おまえみたいな脆弱な坊ちゃんと違うの。」
「だ、誰が脆弱…。」
私の負けず嫌いの虫が頭をもたげ出した。思いきって一歩踏み出す。
…なんでこの畳はこんなに毛羽立っているんだ?
「や、やっぱり…いや〜!」
芝生のつもりで座ったら、下に泥水が隠されていた感触だ。誰だって嫌だろう!
「誰だい、うちの上部屋に文句つけてるのは!」
突然、背後からご婦人の声がした。