2004年 8月 22日(日)

VS.ばあちゃん

不意を突かれた私は、びっくりして振り返った。
半白の髪を潔く刈り上げたご婦人が私の後ろに立っている。両手に持っているのは大きな盆。上にはガラスの小鉢とコップと、氷の入ったボールに麦茶の満たされたポット。
よくもまあこれだけの物をこの細腕で…と思ったが、たくましく小麦色に焼けた腕は、私のそれよりずいぶん太い。
ご婦人は、お年にしては長身で、私と大して変わらない身長だ。私はそのことだけでも十分実感した。
この方は…慎吾のおばあさまだ。

「あっ、あのっ、はじめまして、私…。」
「いいからそこ退いてぇな、重いんやし、気の効かない。
慎吾! ぼやぼやしてんやないの。早うこれ受け取りなさい。ばあちゃん働かせて!」
「あっ、堪忍な。ばあちゃん。おっ、心太か。ばあちゃんのは絶品やもんな!」
慎吾は身軽に立ちあがると、ご婦人の手から盆を受け取った。それを黄ばんだ畳にじかに置くと、小鉢の中にはなるほど心太が入っている。
慎吾はびっくりの連続で立ち尽くす私を軽く拝むようにすると、腕を引っ張って自分の隣に座らせた。
…ついに座ったことのない畳の上に座ってしまった…。

「わあ、美味しそう!」
子犬コンビが早速きゃあきゃあと覗きこんでいる。
おばあさまはよいしょと座り込んだ。コップをタカタカと並べて、その中に氷を放りこんでいく。目にもとまらぬ早業だ。
「うちは基本的にセルフサービスやけどな、今だけはサービスしたるわ。慎吾のお友達やしな。」
麦茶の注ぎ方がまた豪快だ。お盆の上に麦茶がビタビタにこぼれている。

「心太は? みんなお醤油とお酢でええんやね。からしと青のりはお好みでどうぞや。」
アレはきっと食卓にも登場するであろう醤油さしを、一遍に二つ持って、小鉢に輪を書く様にお醤油とお酢を注いでいく。
ああ…なんて大胆なもりつけだろうか…。なにか哀しい気分になるのは私だけか?

「んん…、うまい! 本当にうまいですよ、この心太!」
雪紀が珍しくオーバーな仕草で目を丸くする。私はといえば、心太の小鉢と麦茶のコップを前に固まったきりだ。
「あったりまえやないの。慎吾がお友達連れてくるゆうから、ばあちゃん腕により掛けたんやで。そこらで売ってる工場の大量生産といっしょにしたらあかん。
香りがちゃうやろ? さっき枠から押し出したてのほやほやや。
ん? そんであんたはなんやの?」
おばあさまはさっきから手もつけられない私のほうを訝しげに見ている。
私は慌てて姿勢を正した。

「はじめまして、おばあさま、私は…。」
「いややわ、おばあさまなんて、あー気持ちわる! ばあちゃんでええのよ。うちは砂子屋のばあちゃんで通ってるんやし。
おや、あんたはさっき、畳がどうとか言うてた子やね。」
また挨拶を途中で遮られてしまった…。

「ばあちゃん、これがな、天音や。前に言うたやろ。
俺の子供のころからの知り合いの、綺麗な天音ちゃんや。」
「ああ、おうちが踊りとお花をやっているって言う…。」
おばあさま…ばあちゃん…(呼び辛いが郷にいりてはなんとか言うし…)は、ちょっときつい目で私を見た。

「それで、なんやの。うちの畳がなに?
文句あるなら車庫で寝てもええんやで、自分。そこなら畳はあらへんしな。
もっとも畳だけじゃなくて、壁も入り口もないけどな。」
ばあちゃん…は、自分の言った事がおかしかったようで、膝を叩いて笑っている。
ご婦人に対する感情ではないと思いながら…さすがにちょっとむっとする。

「ここは、宿泊のできる施設だと伺ってまいりましたが、どうやら私向きではないようです。」
「な、なに言うの、天音!」
「だってそうでしょう。玄関の上がりかまちから砂でザラザラで。これが客を迎える旅館のありようですか!」
言ってしまってから、きつすぎる口調だったかと後悔したが、もう遅い。
雪紀がなんだか呆れたようにため息をつくのが見えた。

なにか怒るかと思ったばあちゃんはなんにも言わずにひゅっと手を閃かせた。
私の胸になにかがあたってパサリと落ちる。
「言うたやろ、うちは基本的にセルフサービス。うちの役目は、あんたらに美味しい物をたらふくご馳走することだけや。
掃除が気に入らなければ、自分でしい。」
投げつけられたのは、使いこんだ雑巾だ。私は思わずそれを払ってしまう。
「な、なんでわたしが…。」
「それとも、東京のボンは、床掃除もできはらせんの? こんなばあちゃんにできるのに?」

きいっ! これが本当に慎吾のおばあさま?
「ば、ばあちゃん、天音は良家の坊ちゃんなんやから、そんな言い方したらあかん!
天音も…、そんな怖い顔せんといてぇな。な、俺が謝るし。」

慎吾に謝ってもらったところで、腹の虫が納まりません!
私だって踊りの新弟子時代には、広大な板の間を拭き掃除させられたことなど数え切れません。
やれと言うなら…やってやろうじゃありませんか!

「ええ、やって差し上げますよ!
あなたの目がでんぐり変えるくらい綺麗にして差し上げます!」
「あ、天音…、ああ〜! 
ばあちゃん! 俺が怖いやないの! 天音からかったらあかんて!」

狭い階段をどかどかと降りながら、私は慎吾の情けない声を聞いていた。
俺が怖いって一体何事!
それにこれは…からかっているなどということではなくて、完全に嫌がらせでしょう!

そうして私はカッカしながらそう長くもない板の間を拭きまくった。
大して広くもないから、1階と2階、ついでに階段とその桟まで全部拭いても大して時間はかからなかった。
綺麗に吹き上げた廊下を眺めて悦に入り、それからはっと我に帰る。
私はなんの為に…伊勢くんだりまで来たんだ?