2004年 8月 23日(月)

意外な横顔

玄関の脇に水道があったのを思い出して、私は一旦外に出ると雑巾を綺麗に洗った。
それを持ってまた階段をあがる。綺麗な廊下はやはり気持ちがいい。
部屋に帰りつくと、慎吾が馬鹿みたいにおろおろと私の帰りを待っていた。

「ああっ、天音、本気で掃除したんか?」
「当たり前でしょう。ぴっかぴかにしてきましたよ。今ならスケートだって出来ます。
おば…、ばあちゃんはどうしました。雑巾をお返ししたいんですが。」
「ばあちゃんなら忙しいゆうて、もう降りたわ。裏でなんぞやっとるんちゃうかな。」
「おい、天音。掃除終わったんなら海へ行くぞ。」
「海…ですか。」
見ると白雪君以外のみんな、ちゃっかり水着を着込んでいる。

「海が目的で来たんだ。当たり前だろう。涼しくなる前に一泳ぎしてこよう。」
「私は…いいです。皆さん行ってらっしゃい。」
「あの…俺も。」
白雪君がおずおずと言う。もしかしたら白雪君は水着を着たくないのかもしれない。
今も長袖を着込んでいる白雪君の腕には、見られたくない火傷の跡があるのだ。

なんだかそわそわと落ち着きのない慎吾たちを送り出して、私は黄色い畳の部屋へ戻った。
まだ畳に違和感は拭えないものの、よく見てみるとそう不潔でもない。私はそれでもやっぱり畳の隅を選びながら歩いて、自分の荷物の方へ行った。読みかけの文庫を取り出す。
白雪君は開け放した窓から、海の方をぼんやりと眺めている。
本当は遊びに行きたいのかもしれない。

「白雪君、遊びに行かなくていいんですか?」
私は文庫から顔を上げて聞いてみた。ぴくんと肩を竦めた白雪君は、ちょっと困ったような顔をした。
「…やっぱり腕が気になりますか?」
「……はい。」
白雪君は小さく肯いた。

「…俺の腕、誰にも見せてないんです。誰かに見せるには、…結構ショッキングだと思うんです。」
白雪君はそう言うと、私を上目遣いで見上げた。そしてそろそろと袖をめくって見せてくれた。
あの夜は、ちらりと一瞬見えただけだから、白雪君の腕がどんな事になっているか、本当は良く知らなかったのだ。
確かにショッキングだった。
白い白雪君の二の腕一面に、煙草の丸い跡が歪に並んで、大きな文字が描かれている。
一巳と、読めた。

「俺の幼なじみなんです。ずっと仲良しでいたのに、ある日突然苛める側に回っちゃって、これも彼に無理矢理やられました。」
白雪君は細い腕を撫でて、なんとも言えない切なそうな顔をした。
しかし、私はなんとなくその一巳の歪んだ独占欲がわかるような気がした。
いつまでも幼なじみとしてしか見てくれない白雪君なら、あるいは自分の名を刻み込んででも、自分の存在を誇示したくなるかもしれない。

「おや、あんたたち、海行かへんかったんかい?」
突然襖が引き開けられた。竹の箒を持ったばあちゃんが、仁王立ちになっていた。
白雪君ははっと身を竦めると、慌てて腕を袖で隠した。だが、私たちはその襖の傍に座っていたから、ばあちゃんには白雪君の腕が見えてしまっただろう。
「なんやの、じじむさい。若い子ぉは元気が一番や。さ、二人とも黴生えるで。お日様に当たってきいや。水着もあるんやろ。着替えて着替えて。台風が来そうなんや。今日逃したら明日は泳げるかわからんで。」
「あっ、あの私たちは…。」
ばあちゃんは機関銃のようにまくしたてると、ぴたんと襖を閉じた。どたどたと階段を降りていく。どうやら着替えろと言っているらしい。
強引なそのやりようにまたむっときながらも、仕方なく私は着替える事にした。だいぶ日が陰ってきていて、そう酷く日焼けはしなくて済みそうだ。
それに逆らうと、あの竹ぼうきで掃き出されそうに思える。
私が厭々着替えているのを見ると、白雪君もちょっとしゅんとしながら着替え始めた。

着替え終わったのを見計らったかのように、またどたどたと足音が上ってきた。
「開けるで。」
いきなり引き上げながらそう言うと、ばあちゃんはポイポイと何かを投げた。
「ばあちゃんのお古で悪いけどな、それ着てええで。そのまま泳いでも何してもええ。
肌さらしたないんやろ。踊りのセンセが真っ黒や様にならんもんなあ。そっちのボンも。
遠慮しないで使うたらええ。」
ばあちゃんはちらりと白雪君の方を見ると、またバタバタと階段を降りていった。どうやらこれを渡す為だけに上がってきたらしい。

投げられた物を見ると、きちんと洗濯のしてある、けっしてボロではない薄手のブラウスだ。まだまだ現役に耐えられる様子で、海につけてしまうには惜しい物だろう。
ん?
もしかして、私の踊りを引き合いに出したのは口実で、さっきの一瞬で白雪君が腕を出したくないのを見抜いて、これを持ってきてくれたのだろうか?
あれ?
なにか…さっきまでのばあちゃんのイメージと違うぞ。
白雪君はほっとした表情で、そのブラウスに袖を通している。いかにも女物だが、それでも一生懸命選んだのかもしれない。あっさりした柄のブラウスは、男の白雪君や私が着ても、さして奇異には写らない。

私は首を捻りつつ、白雪君を伴って浜へ降りた。