| 2004年 8月 24日(火) |
完敗かも…
「しかし…。」
私は砂の上に体育座りをして、ぼんやりと沖を眺めた。
波打ち際では咲良と瑞樹と白雪君が子犬が戯れるように遊んでいる。沖の方には大きな水飛沫が二つ。慎吾と雪紀だ。どうやら競争をしているらしく、飽きもせずに行ったり来たりを繰り返している。
そもそも、慎吾に水泳で敵う奴がそうそう居るわけないのだ。それは雪紀もよーくわかっているだろうに。
競争となるとどうしてもムキになるのが雪紀の可愛らしいところだな。
「それにしても…暑い!」
日は陰ってきている。それは確かだが、湿気が多い。こうして座っているだけで、皮膚の重なるところ、肘や膝の折り返し部分にじっとりと汗が滲んでくる。
やっぱり部屋に戻ろう。私はとことんインドア派なのだ。そう思いながら腰を上げた。
「天音〜! せっかくやし、一緒に泳ご〜!」
遠くから慎吾が叫んでいる。気付いているのだろうか? 頭のてっぺんに海草が乗っている。
「…一人でふやけるまで泳いでいなさい。」
返事をする気にもなれなくて、私は呟くと踵を返した。
宿に近づくと、ばあさまがしゃがみこんで奮闘しているのが見えた。
行水も出来そうな、あれは寿司桶だろうか、しゃかりきになって洗っている。
しかしよく働くばあさまだ。さっきから一瞬も一つ所にじっとしていない。
あの勢いで働くのに、どうして廊下がざらざらで畳はあんなに汚いのだろうか? 私は少し離れたところから様子を伺った。ばあさまはようやく桶を洗うのに満足したのか、ちびたたわしを勢いよく振って水を切りながら立ち上がった。
すると、それを待っていたかのように声が掛けられた。中学生だろうか。道着を着た一団だ。
「ばあちゃん! ほら、見てんか! 地区優勝やで!」
真っ赤な旗を閃かせるように掲げている。腰をとんとんと叩いていた婆さまは、おうおうと孫を迎えるような声を上げた。
「よう頑張ったのう。えらいで。」
「ばあちゃんが毎日差し入れしてくれたおかげや! これで怪我した主将にも胸張って報告できるで!」
………慕われている?
なんだかものすごく意外だ。
「よっしゃ。お祝いせな。ちょっと待っとき、スイカ切るで。
ホントは今日の客用やけど、まあええわ。アンタらの方が可愛いしな。」
うーむ…。今日の客と言うのは私たちのことではないか…。
やっぱり何と言うか、反りが合わないというか…。
「おう、天音、何を突っ立ってる。」
髪から水を滴らせた雪紀が立っていた。雪紀は玄関脇の水道に行くと、豪快に水を被った。
「泳ぎ疲れた。休憩だ。慎吾の奴、ちょっとは手加減しろって…。」
タオルでばさばさと体を拭くと、からりと引き戸を開ける。音を聞きつけたのか、ばあさまが顔を覗かせた。
「おや、スイカの匂いでも嗅ぎ付けたんか? 待っとき、そっちにも運ぼ思てたんや。」
…私たちの分もちゃんとあるのか。
「ああ、ちょっと忘れ物を取りに来ただけですから、すぐ戻ります。俺が運びますよ。」
雪紀は如才なく言うと、身軽に上がった。
私も後を追いかけて、はっと足を止める。
さっきあんなに拭いた廊下がまたざらざらになっている。
「どうした、天音、ぼうっとして。」
手にオイルの瓶を持った雪紀が降りてきて、私の顔を覗き込んだ。
「さっき拭いたばかりなのに…砂が。」
「当たり前だ。こんなに砂浜が迫っているところで、砂が入らない方がどうかしている。まして今日は海から風が吹いているしな。いくら拭いたって追いつかないさ。」
「そ、それじゃ…。」
私のばあさまに対する非難はまったく見当違いだったという事?
「は…早く教えてくれればいいじゃありませんか!」
「や、ばあちゃんが楽しそうだったから。」
「なんやの、ああ、廊下か? この季節はいくら拭いてもわややな。」
ばあさまがもう一度顔を覗かせた。手にスイカ満載の盆を持っている。
「けど、あんたはんがさっきあんじょう拭いてくれたから、手すりの方はぴかぴかやで。ばあちゃんも一回楽できたしな。ありがとさん。」
ばあさまははっはっはっと豪快に笑った。
遊ばれている。…完全に遊ばれている。この私が…。
「また拭いてぇな。」
ばあさまは呆然とする私に盆を押し付けて、厨房に戻った。ご飯の炊ける匂いがしている。
寿司桶から察するに、今日は寿司を作るようだ。
「ちなみに、畳も大して古くねえぞ。せいぜい1年て所だ。」
「だ、だって色が…。」
「おまえんちみたいなお屋敷はとにかく、普通は西日が当たれば畳は黄色くなるんだよ。
まして海沿いじゃ、潮風で何だって風化が早いさ。」
要するに…私の完敗?
スイカを持っていきかけると、子犬たちと白雪君が転がるように走ってきた。慎吾に追いかけられているようだ。
「な…何事です!」
スイカをぶちまけそうになって、私は思わず叫ぶ。
「だ、だって、慎吾センパイが〜!」
「クラゲには…小便だって…!」
「はあ?」
3人が私の背後に隠れるように回り込む。慎吾は妙に嬉しそうな顔で追いかけてきた。
「待たんかい! ほれ、刺されたところ出してみ! 俺が小便かけて治してやるって!」
そう言えば、クラゲに刺されたら小便を掛けろというのは通説になっているのだったか。
それにしても…この筋肉の嬉しそうな顔といったら…。
慎吾が不意に手を伸ばした。長いリーチで、白雪君の引っかけていたブラウスの奥襟をがっしと掴む。白雪君が細い悲鳴を上げた。
「ほーれほーれ、まずは白雪やな〜。どこか? 足か? 覚悟して…。」
「およしなさい、慎吾!」
私の制止の声も聞かずに、慎吾は暴れる白雪君の足を抱え込んだ。そうして自分の海パンに手を掛ける。こんなところでご開帳かと目を閉じかけた時、パカーンと、とてつもなく思い切りのいい音がした。
「慎吾っ! このバカチン! そんな民間療法でアホなもん掛けるんやない! バイキン入ったらどないするのや!」
「いった〜! ばあちゃん、おたまはあんまりや〜。」
ばあさまが仁王立ちになっている。いつのまに持ち出したのか、救急箱を傍にいた瑞樹に押し付けると、ばあさまはもう一度慎吾を張り倒したおたまを振り上げた。
「ひゃ〜! 堪忍〜!」
情けなく縮こまる慎吾を見下ろして、ふふんと鼻息を荒くする。まるで勝ったと言わんばかりだ。
「小さい子ォ苛めたらあかんて、ばあちゃん昔から口を酸っぱくして言うてるやろ! ばあちゃんの言う事聞けへん子は、晩飯抜きやで!」
小さい子というのは…咲良たちのことか?
1つ2つしか違わないのに…。
「だいたいなあ、ばあちゃんあんたのそんな毛むくじゃら、見たないんや。
さ、仲直りして、早く薬つけてやり。クラゲかて、馬鹿にしたらあかん。」
何というか…、慎吾のばあさまは、口は悪くて手は早いが、面倒見の良い方なのだな。
そういえば、そういう短絡的なところは、慎吾に似ていると言えなくもないか。
私は少し肩の力を抜いた。うちのおばあさまとは比べるべくもないが、この人もやはり、暖かいばあさまである事には違いないのだ。良く知りもしないで毛嫌いしていた私が単純だったかもしれない。
ばあさまを見直している私の方を、不意にばあさまが振り向いた。
「せやね、慎吾の毛むくじゃらは見たないけど、そっちの色男とボンのなら、ばあちゃん拝んで見せてもらうわ。やっぱ、若い子ォはええよってな。」
「ば…ばあちゃん! 俺のは駄目なのになんで!」
慎吾がばあさまに追いすがって半泣きになっている。
…このばあさまと筋肉は…!
やっぱり私とは水が合わないのかもしれない!