2004年 8月 28日(土)

イルカとキッス

「でもそういえばさあ、天音さんてあんなに生き物嫌いなのに、水族館は平気なんですね!」
いきなり咲良がにこにこと話しかけてきた。私はぎくりと体を強張らせた。

「本当は平気って訳でもないんだぜ。ガラスが間にあるからまあ冷静でいられるだけで、本当は鳥肌もんだよな、天音。」
佐伯氏の隣に座っていた雪紀がそっくり返るようにして私たちを振りかえる。
「そもそも天音の動物嫌いは小学舎の頃の、水族館遠足に端を発してるんだ。」
「えー、それなんの話〜!」
「聞きた〜い!」
子犬たちが揃って声をあげる。白雪君まで興味津々の目で雪紀を見つめている。
可愛い3人に見つめられて、雪紀は得意になったのだろう。私の殺人光線のような視線をものともせず、えへんと咳払いをすると、得意げに話し出した。

「小学舎の時の遠足で、水族館に行ったんだ。あれはいつだったかな。」
「3年生のときです。若。」
「そうそう、慎吾が帰ってきた頃だもんな。当時は天音の動物嫌いも、さほど酷くなかったんだ。」
雪紀が詰まると、すかさず佐伯氏がフォローを入れる。二人してグルとは…。

「大所帯だからな、貸し切りで、水族館丸々占めてな。なんでも見放題だった。
今日の水族館は結構空いてたけど、大抵どこだって満員だろう? ましてやうちは良家の子女も多く通う学校だ。外部との接触を避けたんだろうな。
だから、そこのイルカショーも好きなだけ見ることができた。」
興の乗った雪紀は身振り手振りだ。私は制止をあきらめて窓の外を見た。
大粒の雨が窓ガラスを叩き始めている。

「慎吾と直哉がイルカショーが妙に気に入ってな、何度も見に行こうって誘うんだ。
イルカショーは1時間おきに30分単位で行われていて、毎時ジャストにイルカプールへ行けば必ず見られるんだ。
俺は2回目で飽きたし、天音は生臭いとか言って嫌がってたけど、とにかく慎吾が強引でな。俺たちは引きずりまわされてた。」

私の思いきりのいやな顔を知ってか知らずか…知ってだろうな。雪紀はますます饒舌だ。
首振り人形みたいに揃って首を振りながら食いついている子犬たちも、このときばかりは…可愛くないぞ。

「何度目かのときに、イルカ使いのお姉さんがな、サービスのつもりだったんだろう。お友達にも協力してもらいましょうって言い出してな、壇上に上げられたのが、天音だったんだ。」
「えー!」
「わー! いいな〜!」
…何がいいものか。

「俺たちはずっとイルカショーを見ていたし、イルカ好きの子だと思われたんだろう。
俺たちは当時からでかい子供だったけど、天音は小さくて女の子みたいだったから、絵面的にもよかったんだろう。ところが、天音は大の動物嫌いだ。
お姉さんに呼ばれてひょいひょいついていった先がイルカプールで、こっちがわから見ててもはっきり分かるくらい引きつってな。」
雪紀の声に、思い出したくない思い出が蘇り、偏頭痛がする…。

「えー、だって、イルカショーのゲストなんて、みんなの憧れじゃないですか!」
「そうだよ! 天音先輩、嬉しくなかったの?」
咲良と瑞樹が絡み付いてくる。にこにこした笑顔の中に、ほんの少し人の悪い笑いが見て取れる。おのれ。
白雪君が呆然と事の成り行きを見守っている。
白雪君にはまだ、私の動物嫌いは…ばれていなかったんだっけ。それも今日でおしまいか…。

「最初はフープを持たされて、それはお姉さんと一緒だったんだ。その輪をイルカがくぐってな。もうその時点でびしょぬれで、天音にしたら珍しく泣きそうだったな。」
当たり前だ。あれは遠足に行くと言うのでおばあさまがしたててくださった一張羅だったのだ。
「次はイルカにご褒美を上げる役だったんだ。天音の奴、生の鰯が持てなくてな。」
あんな生臭い物…。私がもてるわけないでしょうに。
「最後にイルカとキッスだ。カチンカチンに固まった天音を後ろからお姉さんが支えてな、プールからデローンと出てきたイルカが天音のほっぺたにキス…というか、タッチだな、あれは。
その途端、天音の奴、火のついたように泣き出して、ついでに下からも大洪水!」
「ええっ!」
「下からって、まさか…!」
「そう、おもらししちゃったんだよ。衆人監視の中で。」

小気味よさそうに、雪紀の奴が笑っている。隣で佐伯氏までもがくすくすと声を忍んでいる。
そう言えばあの遠足には、父兄も多数参加していたんだったな。
子犬たちは笑いそうになるのを必死に押しとどめた顔だ。白雪君一人が神妙な顔で私を見つめている。

「だって…、仕方ないでしょう。あのイルカの顔と言ったら! 私の頭くらい簡単に食いちぎれそうに大きな口で!
その大きな口一面に細かい歯がびっしりで! 分厚い舌から粘液が滴ってて!
ものすごく恐ろしかったんですよ!」

きゃははは…と、甲高い声が破裂する。子犬たちが我慢しきれずに笑い出したのだ。
「でも、でも、おもらししちゃうなんて…っ!」
「天音さんってば…かわいい…っ!」
最後の咲良の一言で、雪紀の哄笑がぴたりと止まった。

「うわー、俺が一緒にいたら、抱っこで慰めてあげたのに〜。」
「本当…、天音先輩も小さい時は苦手があったんですね〜。」
いまでも本当はたくさんあるが…。
いずれにしろ、この一瞬で私と雪紀の立場が逆転した。
雪紀の奴…私を笑い者にして楽しむつもりだったんだろうが…どうだ。
幼少の私の愛らしさは、どんな者の心でもがっちり掴んで放さないのだ。
それがたとえ雪紀の恋人であっても…な。


宿に帰りつく頃には、風雨がかなり酷くなっていた。
昨日は鏡のように静まり返っていた浜が、灰色に濁って白い波を蹴立てている。
ほんの少し、車から宿までの距離を走っただけでびしょ濡れになった。
早速タオルを抱えたばあさまが出てきて、小さい方からくるくると拭いていき、不思議な顔をした。

「慎吾はどうしたのや?」
「慎吾は、今日も泳ぐと言って、海へ…。まだ戻らないのですか?」
「海へて…あほな。テレビ見ぃへんかったんか? 大型の台風が来てて、朝からここら一体遊泳禁止になっとるで!」
ばあさまの手からタオルがばさりと落ちた。