2004年 8月 29日(日)

嵐の海

ばあさまが慌しく電話を掛けている。私はそれをぼんやり見つめていた。
「せや、うちの孫が帰って来ぉへんのや。海に泳ぎに行ったらしいて。
泳ぎは…人一倍得意な子ぉやけど、こんな天気やし。
ああ…、おおきに。恩に着ます。」
ばあさまは受話器を壊れ物のように置いて、それから私たちを振り返った。

「さ、ボンたちは上に上がっとき。今な、町の、漁協の人たちが探しに行ってくれるそうや。
大丈夫や。慎吾は昔から、変に悪運の強い子や。絶対帰ってくる。」

ばあさまの組み合わされた両手が小刻みに震えている。
海の恐ろしさを知り尽くしているはずの、ばあさまの動揺が、静かに私にも伝わってくる。

「おばあちゃん、俺たちも、探しに行きますから!」
「うん、俺も…泳ぎはあんまり得意じゃないけど…。」
「あかん! 絶対あかん!」
ばあさまは思いがけず強い言葉で、盛んに手伝いを言い募る咲良と瑞樹と白雪君を押しとどめた。

「海を馬鹿にしたらあかん。人間、膝丈の水が荒れただけで溺れるんや。海のこと、この辺のこと、なんにも知らんあんたらが行っても、足手まといになるだけや。
最悪…二次遭難も心配せなあかん。」
「二次…遭難って…。」
3人は言葉を飲みこむ。

「ええな。あんたらはおとなしゅうしとき。人間はな、自然には逆らえんようにできとるんや。
毎年、自然を侮って命を落とす馬鹿もんが出る。海は少し荒れたほうがよう魚が釣れるとか言うてな。
そんな馬鹿もんを助けるために、他の人間が命を賭けることなど…本当はあってはならんのや。」

まだ記憶に生々しい映像が蘇る。繰り返し放送されたテレビの映像だ。
今年の台風で、荒波荒れ狂う中に、見物にでも出たのだろうか、堤防の上を無防備に歩く3人の男性。
まるで木っ端を流すように、簡単に波に攫われていってしまった。

不意に、その姿に慎吾の姿が重なった。
慎吾は無事だろうか。今まさに、波に飲まれているのではないだろうか。
苦しんでいるのではないだろうか。波に翻弄されて、もがいているのではないだろうか。
今にも沈みそうになりながら、私を呼んでいるのではないだろうか。

「慎吾…っ。」

思わず走り出そうになった私の腕を、誰かががしりと掴んだ。
「放してください、慎吾が…っ!」
「落ちつけ、天音!」
聞いたこともない、凛とした雪紀の声。

「ばあちゃんの言う通りだ。おまえが出ていってどうなる。」
「だって、慎吾が…!」
私を呼んでいるかもしれないのに。今にも海に囚われてしまうかもしれないのに。
慎吾が居なくなってしまったら、私はどうしていいのか分からない。

「放してください! 私はいいんです。慎吾と一緒なら、それがたとえ海の底でも!
慎吾が一緒でないと、慎吾が…っ。」
「ほーい、呼んだ? 天音。」

間抜けな声が響いて、一瞬私たち全員が固まった。
ガラリと引き戸を開けて現れたのは、全身ずぶぬれの慎吾だ。

「やー、参ったわ。波が高うなってきたから、もう帰らな思うたら、思ったより流されとってな。
やっと陸に着いた思たら、今度はここがどこやさっぱり分からへん。
なんとか陸地の地形を頼りに歩いたけど、ビーサンはないし、ずーっと裸足でてくてくや。
どうも違う入り江に入り込んだみたいで、そっからまた道には迷うし、途中で道はふさがってて迂回せなあかんし。
腹は減るし、金はないしで、もう大変やったんや。
ん? 天音? なに泣いてるん? 腹でも痛いんか?」

ばあさまは大きく深呼吸すると、受話器を上げた。探しに出てくれているという漁協の人たちに連絡をとるのだろう。
私も、思いきり息を吸った。一瞬の動揺でがんがん頭痛がして、それがなにより腹立たしい。

「慎吾…もうちょっと頭を下げてください。」
「ん? 頭? なんやの? こうか?」
慎吾が私の指す位置に、頭を下げた。私は思いきり腕を振り上げた。

「あっ!」
「うわぁ!」
「きゃっ!」

子犬たちと白雪君が、三人三様の悲鳴を上げた。雪紀はため息をついただけ。

「こんなに私たちに心配をさせて! よくのうのうと帰ってきましたね!」
「いった〜! なんやの! どうしてグーで殴られなあかんの!」
「分からないその筋肉脳には、もう一発…。」
「うわあ、堪忍堪忍! すんまへん! 参りました!」

慎吾はずぶぬれのまま私のわきを擦りぬけて上がりこむと、ちょうど受話器を置いたばあさまの後ろに回りこんだ。
「このっ、おお馬鹿者がっ!」
「げっ、ばあちゃんっ、ひゃあっ!」
ばあちゃんが振り上げたのは、電話機の横にあった重そうな花瓶だった。
危うく避けた慎吾をかすめて、花瓶は床で粉々になる。

「あっ、危ないて! そんなん当たったらマジで死んでまうて!」
「海で死なすくらいなら、ばあちゃんがこの手で殺したる! ばあちゃんもう2度とあんな思いしたないねん。帰ってこないじいちゃん待って、ばあちゃん一体どのぐらい泣いたと思うてるの!」

立ち尽くしたばあさまが震えている。やがてその、年輪を重ねたほほの上に、大粒の涙が溢れ出した。
「ばあちゃん、もう2度と、海の神様に大事な人あげたないねん。」
すっとぼけた表情で逃げていた慎吾が真顔になった。
「ごめん、ばあちゃん、心配掛けたわ。
じいちゃんが、釣り客助けに行った二次遭難で亡くなったの、俺すっかり忘れてたわ。
ほんと、堪忍な、ばあちゃん。」

私は静かに俯いた。
私たちの行動を必死に止めようとしたばあさまには、そんな体験があったのか。
ばあさまはきっと涙を拭うと、傍にあったご回覧板の板で、めちゃくちゃに慎吾を叩き出した。
あまり痛くなさそうな打撃は、時折間抜けな音を立てたが、もう誰も笑えなかった。

荒れ狂った台風も、夜半にはようやく静かになってくれた。