2004年 8月 30日(月)

込み上げる気持ち

 今朝は、昨日とうってかわって良いお天気になった。
 海も穏やかで、綺麗な青を呈している。
 しかし、私は昨日の事で痛感した。自然を、侮ってはならないのだという事を。
 こんなにも綺麗で、穏やかな海が・・・一瞬にして人の命を飲み込む、荒ぶる神と化すのだ。

 慎吾が帰って来ないと聞いたとき、私の心臓は氷のようになってしまった。その感触は、今でも私の中から消えてはいない。
 慎吾がいなければ・・・この世界のどこにも、慎吾が居ないのだとしたら。
 私には生きていく勇気はない。
 

 『決して、胡蝶さんのようにはなるんじゃない』

 そう言って、私達を許してくれた父の声が脳裏に木霊する。 
 けれど、昨日の私には・・・その声を思い出す事が出来なかった。
 取り乱し、錯乱状態に陥った私は、さぞや情けない姿を曝け出した事だろう。けれども、雪紀も、咲良も・・・瑞樹も白雪も。
 そして。
 ばあさまも。
 私のその態度を責めるような言葉を一言も言わなかった。
 
 だからこそ・・・胸が、痛む。




 「なんや、天音。朝っぱらから景気の悪そうな顔しとるなぁ〜。どっか具合でも悪いんか?」
 荷物を作っていた慎吾が、私の顔を覗き込み・・・そんな的外れな事を、満面の笑顔で言ってくる。
 
 具合は・・・悪いですとも。
 昨夜は、神経が昂ぶってしまってなかなか寝付く事が出来なかったのですから。元来、低血圧な私に取ってこの状態はかなり厳しいのだ。

 



 「おい、荷物はこれで全部か?」
 ふいに足音も高く、雪紀が部屋へと入ってきた。
 部屋の中央に集められている、全員の荷物を軽々と両手で持つ。
 
 「・・・慎吾、お前も手伝え」
 一つ二つ残してしまった荷物を持て、と慎吾に対して顎をしゃくる雪紀の態度は非常に尊大なのだが・・・何故だか、今までのようにそんな雪紀に対しての反感を感じない。
 もしかしたら、私の心の中で雪紀に対しての評価が変わっているのかも知れない。

 

 「・・・荷物を積み込んだら、出るぞ?」
 ぼんやりとしていた私に、雪紀が言う。
 「ええ、わかっています」
 無理やりに作った笑顔でそう答えると、私は改めて部屋の中を見回す。
 最初は・・・何て汚い部屋だ、と思ったこの部屋に。 
 たった数日過ごしただけなのに、何とも言えない愛着を感じてしまう。
 

 日に焼けてささくれた畳に、風が吹けば砂が入り込む窓。
 そしてその砂埃で、白くなっている廊下も。
 口が悪くて、腹立たしかったばあさまも。

 今はその全部が、離れがたく思える。


 「おい、天音〜!そろそろ行くで!」
 「はい、今行きます」
 階下から慎吾に呼ばれ、私は感傷を振り切ると部屋を出た。


 「さぁさぁ、早ぅ車に乗り」
 最後に残った私を、ばあさまが急き立てる。
 「・・・・・お邪魔、致しました」
 私がそう挨拶をすると、ばあさまの皺だらけの顔が、くしゃりと歪んだ。
 「全く、最後までスカしたボンや・・・。そんな気取った挨拶なんてせんと」
 「でも・・・お世話に、なりましたから」
 「せやから、ばあちゃんまた来るわ!で、ええんや」
 声を震わせ、顔を歪ませてそう言うばあさまの姿に私の目頭が熱くなる。

 「また、おいで?来年も、再来年も・・・ばあちゃん、砂だらけにしてボンが来るの待ってるから」
 「はい・・・はい。必ず、来ます」

 


 いつまでも手を振るばあさまを残して、車は走り出した。