2004年 8月 4日(水)

小鹿の涙

慎吾のふざけた話の後も、しょうも無い怖い話は延々続き(提出した筈のレポートが1枚2枚…やら、開かずの弁当箱が中身の入ったままもう半年も放置されている…やら!)ようやくお開きになったのは午前2時を回っていた。
さっきの自作自演で興奮しているのだろう。鼻息の荒い慎吾が当然のように私の傍にやってきた。
私は肩を抱こうとするその手を冷たく払い落とした。とたんに慎吾は水をぶっ掛けられたムク犬みたいにぺシャンとなる。
「天音〜…。」
「触らないで下さい。あなたはその、可愛くて積極的な恋人に慰めてもらえば良いでしょう。」
そう、私は怒っているのだ。あんな場で私をネタにするとは! しかもほとんど脚色無しの事実って…どういう事!
「とりあえず、一週間は寄らないで下さい。」
「そんな〜、あんなの、場を盛り上げるためのちょっとしたお茶目やないの…。」
お茶目であんな話をするのか!
「とにかく、私は今夜は白雪君のところに泊めてもらいます。あなたは隼人でも泊めなさい。」
「やや〜、あんなごつごつしたの…。」
別に撫で回せと言ってるわけじゃないでしょうに!
私は傍を通りかかってきょとんとしている白雪君を捕まえると、慎吾の傍を離れた。

白雪君の部屋は、予想通りきちんと片付いていた。
物の少ない清潔な部屋に、白雪君はちょっとどぎまぎした顔で私を招きいれてくれた。
この寮は、大きな浴場も、厨房付きの食堂もあるが、個々の部屋にちゃんとユニットバスとミニキッチンも付いている。そこで白雪君は急いで紅茶を煎れてくれた。
「ありがとうございます。すみませんね、突然押しかけて。」
「いいえ、いつもお世話になってますし、隼人がご迷惑おかけしてますし。」
本当は隼人を泊めたかったのだろうか。そう言えば、隼人は昨夜はどこで寝たのだろう。
「隼人は…、下の食堂で寝たって言ってました。俺のとこで泊まればいいのに…。」
なんとも恥ずかしそうな様子が初々しくて可愛い。

「ところで、白雪君のご実家はどこです?」
「え…、都内…です。」
なぜだか答えにくそうに、白雪君は言った。
「おや、近いじゃありませんか。帰省されないんですか?」
「…ええ。」
困ったような顔で、それでも妙にきっぱりと白雪君は言う。なんとなく話の接ぎ穂を失って、私は紅茶を飲んだ。
「天音センパイのお口には合わないかも…、リプトンのティーバッグしかなくて…、すみません。」
「いいえ、十分おいしいですよ。」
生徒会室に置いてあるのは、殆どが私が持ち込むマリアージュの茶葉だ。それを白雪君は知っているらしい。
咲良が上手に煎れてくれるからそれに甘えているが、ティーバッグだって上手に煎れればとてもおいしくなる。白雪君はちゃんと涌きたての熱湯で丁寧に煎れてくれた。慎吾みたいにポットのお湯で振り回しながら煎れてくれるティーバッグとは雲泥の差だ。

「あの、天音センパイ、お風呂とかは…いかがなさいます?」
おずおずと白雪君が聞いてくる。私はにっこり笑った。
「実はさっき慎吾のところでもらいましたから、今日はもういいです。明日の朝、シャワーだけ貸していただけますか?」
「あ…、じゃ俺、ちょっと行ってきていいですか?」
「もちろん。どうぞ。」
白雪君は立ち上がるとぺこりと頭を下げて、羽織っていたシャツを脱いだ。真っ白い腕が晒される。そう言えば、白雪君はいつも長袖を着ていたなと思い、それから彼の腕を見て私ははっと息を飲んだ。
透き通るように真っ白い腕の内側に、丸い火傷の跡がいくつも付いている。
あれは…見た事がある。煙草の炎を押し当てた跡だ。
白雪君はそそくさと荷物を丸めると、逃げるようにバスルームへ入って行った。

白雪君に煙草は似合わない。現に、今日もたくさんの寮生が煙草を咥えていたが、白雪君はむしろ煙から逃げるようにしていたではないか。
私は自分の顔が怖くなるのを感じていた。問いたださねば気が済まない。

間もなくシャワーを終えた白雪君は、すでに長袖のパジャマを着込んでいた。私はカーペットの上に正座をし直すと、白雪君を呼んだ。
「その腕は…どうしたんですか?」
なるべく柔らかく言ったつもりだったが、白雪君はきゅっと首を竦めた。私を恐る恐る上目遣いで見上げて、寒そうに肩を寄せる。
「煙草で…焼きました。」
小さな声。私は白雪君が小刻みに震えているのに気が付いた。
「あなたは煙草は吸わないでしょう? どうしてそんなにいくつも跡があるんです?」
「それは…その…。」
「あなたが帰省できないわけと関係があるんですか?」
図星を付いたようだ。白雪君はびくっと震えると、ますます小さく俯いた。
何だか私が彼を責めているようで、すこぶる気分が重い。

「俺…、中学生の時、苛められてて…。」
長い時間の後、やっと話し出した白雪君の声は、小さく掠れていた。
「最初は名前をからかわれるだけだったんですけど、だんだんそれが酷くなってきて…、俺って苛めたくなる顔してるんでしょうか…。あいつらは…そう言うんです…。」
「そんなことありませんよ。あなたは素直で可愛らしい顔をしています。」
そう答えながら、私はそのいじめっ子の気持が分からなくもなかった。
白雪君はほんの少し昂ぶるだけで、真っ白な頬が薔薇色に染まって、それは愛らしいのだ。
きつめにからかって泣かせてみたいような気もするし、一度箍が外れてしまえば、エスカレートするのに嫌いはないだろう。
「この火傷だけじゃありません。いろいろ酷い事もされて…、俺は、地元に居たくなくてこの学校に逃げ出してきたんです。………でも。」
言葉を切った白雪君は、無理に背中を伸ばすとにっこり笑った。
「今はもう、全然平気なんです。友達も、先輩方もよくしてくれるし、それに…隼人がいるし。」
全然平気そうじゃない白い顔。その酷い思い出は、伸びやかであるはずの白雪君の心を大きく締め付けているようだった。

「隼人の明るさが、俺に嫌なことを忘れさせてくれます。両親には俺が苛めに遭ってたことは言ってないんで、毎日のように母親から帰って来いって連絡が来ます。
今はまだ、怖くて…帰れないんですが、そのうちに帰ることが出来たら、真っ先に友達として紹介したいです。」
「隼人はいい友達ですか?」
「ええ。俺なんかには…もったいないくらい…。」
不意に白雪君は俯いた。ぎゅっと握って揃えた拳にパタパタと水滴が落ちる。
可愛そうなことをしてしまった。今思い出しても我慢できなくなるくらいつらい事を思い出させてしまうなんて。

それにしても…、小さな肩を震わせて嗚咽を堪える白雪君は、
………可愛い♪
咲良や瑞樹とはまた違った可愛らしさだ。隼人なんかにはそれこそもったいない。

私はそっと白雪君の肩を抱いた。ひくりと震える細い背中をあやすように撫でてやる。
「可愛そうに…。辛かったんですね。もう忘れていいんですよ。
あなたの頑張りは、必ず報われます。もう泣かなくてもいいんですよ。」
ああ、本当にいじめっ子の気持ちがよく分かる。
優しい言葉を掛けた途端に、白雪君の背中の震えが大きくなって、ついに嗚咽が漏れ出した。
役得役得。私は縋ってくる白雪君の背中を撫でつづけながら、大満足に微笑んでいた。

可愛い小鹿は、何頭いてもいいのだ。