2004年 8月 6日(金)

帰宅

帰宅すると、なんとなく家の中が火が消えたようだった。
門の前に、菓子の空き袋が転がっていて、私はそれを、顔をしかめつつ拾い上げた。
不心得者が投げ捨てていったらしい。なんとも珍しい事だった。いつもならきれい好きなおばあさまが真っ先に気が付いて始末なさる。おばあさまに言わせれば、門の前や玄関は家の顔。顔が汚れているなど耐えられないという事だった。

「ただいま戻りました。」
声を掛けながら上がっても、誰の応えもない。靴を揃えると、私は真っ直ぐ居間へ向かった。
慎吾と喧嘩別れのようにして帰ってきたのに、誰の歓迎もないのはすこぶる淋しい。
だが、覗き込んだ居間にも人気はなく、私はがっかりして自分の部屋へ帰った。

荷物を解いてしばらくすると、パタパタと足音が響いて、いきなりふすまが開け放たれた。
我が家にはこんな不調法な者はいない。ふてくされて畳にひっくり返っていた私は、慌てて跳ね起きる事になってしまった。
「あっ、やっぱりいたいた! 天音ちゃ〜ん。」
「野乃香…、何ですか、いきなり。無作法ですよ。」
「あれえ〜、ごめんねえ。だけど天音ちゃんだってそんな風に寝っ転がっちゃって〜。
おばあさまに見つかったら怒られるぞ〜。」
私は苦笑いを漏らしていた。まったく、私はこの愛らしい少女に勝てた例がないのだ。

「それより、天音ちゃん、大変だよう〜。」
野乃香は私が許しもしないのに上がり込むと、ぺたりと腰を下ろした。
「天音ちゃんの留守の間に、おじさまが倒れちゃったんだよう〜。」
「えっ…。」
いきなり背中に冷水を浴びせられたような気がした。父は頑健で、病気らしい病気などした事がなかったのだ。

「い、いつ、どうして!」
「んーとね、昨日演舞場でね、空調の調子が悪いのにお稽古してて倒れちゃったんだって。
えーとね、熱中症? 舞台の上が相当暑くなってたんだって。
お弟子さんがすぐに引っ張り出してくれたから、そんなに大した事はないんだけど、お疲れだから2〜3日入院しましょうって言われて、おじさま吠えてたよ〜。もうすぐ公演なのに〜って。」
「熱中症…。」
それは父には有りそうに思えた。昔からひとつ事に目が向くと、回りの事に何も気付かなくなってしまうくらい集中する質なのだ。他の意味でも熱中症というのは肯ける。

「今ね、おばあさまとおばさまが病院に行ってらっしゃるけど、おじさま暇だ暇だって大変なの。」
「ああ…。」
それで誰の出迎えもなかった訳だ。
「だからね、野乃香、大人しくしてて下さいねって、おじさまの頭撫でてきたよう。すぐに良くなりますからって。」
「え? 野乃香、病院に行ったのですか?」
「行ったよう。だっておじさま倒れたのって、昨日のお稽古の時だもん。野乃香初めて救急車に乗っちゃった〜。」
野乃香はにこにこと無邪気に笑う。だが私はそれどころではなかった。

「昨日はさ、お稽古天音ちゃんが先生だって聞いてたから、若い生徒さんたちみんなうんと楽しみにしてたのに、天音ちゃんいなくて、みんながっかりしてたよ。」
「すみませんでした。急に慎吾に誘われて外出したもので…。」
「ちょっとちょっと、天音ちゃん、なにうろうろしてるの? 野乃香、おばさまにお留守番頼まれたんだから…。」
「私もちょっと病院へ行ってきます。どうせ雪紀のおじいさまの病院でしょう?」
「えー、おばさま、来なくていいって行ってたよ〜。すぐ退院だからって。」
のんきな野乃香の返事を斜めに聞きながら、私はうろうろとしていた。
突然の父の変調に、思ったよりずっと動揺してしまっている。気ばかり急くのだが、なにをどう準備したらいいのか分からないのだ。

「それに野乃香、行かない方がいいと思う〜。」
意外と薄情なことを言う幼馴染に、唖然として振り返ると、野乃香はなんだか楽しそうに笑った。

「あのねえ、野乃香、おじさまについて病院に行ったときね、おじさんに誉められちゃったの。野乃香ちゃんは優しいねえって。」
屈託なくにこにこ笑う。
しかし私は、この幼馴染が、見かけよりずっと聡いことを知っている。野乃香がこんなふうに遠まわしに言うときは、その先になにか重大な続きがあるのだ。
「それでねえ、早くうちの頼りない長男のところにお嫁にきてくださいねって頼まれちゃった。」
「えっ、お嫁…。」
思わず絶句してしまう。長男もなにも、我が家の跡取は私だけだ。それはつまり、私と野乃香との縁談…?

「ま、まさか…、冗談でしょう?」
「うーん、あれはかなり本気と見た〜。」
「そんな、…そんな話は今まで一度だって…。」
「だってねえ、ほら。」
野乃香は華奢な左手を差し出す。
その白い薬指には、野乃香にはまだ少し早い、ヒスイの指輪が輝いている。私にとってもよく見覚えのあるものだった。
「あっ、これ…。」
「うん、おばさまに頂いちゃった〜。国見家の嫁の証〜。」

そう、母が正装のときに必ずつける、ヒスイの指輪だ。
その昔はおばあさまの指で輝いていたと言う。
これを譲ると言うことは…、この縁談はかなり煮詰まっていると言うことだ。

一瞬眩暈がした。まぶたの裏を慎吾の笑顔が駆け抜けて行った。