| 2004年 8月 7日(土) |
国見家の行方
父が退院してきた。
過労だったという父は、確かに少しやつれているようだった。
大体父は家にいることがとても少ない。だから、顔を見ないのが当たり前になっていた。
改めて見る父は、昔よく稽古を付けてくれたときよりも小さくなっているようだった。鬢に白いものも見える。
私がこれだけ大きくなったのだ。父が小さくなっても仕方ないのかもしれない。
だが、私にとって父は盤石であり、ずっと変わらぬ威厳であって欲しかった。
一休みすると、おばあさまがみんなを呼んだ。
いつもの居間ではなく、仏間に集まれとおっしゃる。
私は重い気分のまま腰を上げた。
こんな改まって呼ばれるのは、きっとあの話に違いない。
我が家の仏壇はちょっとした寺院並だ。
鴨居には様々な遺影が並んでいる。当主のものもあるが、その妻、若くしてなくなった子供の遺影もある。
私はこの部屋が余り好きではない。今も…そっと私たちを伺うように視線を向けている、この世ならざるものの存在が分かる。
おばあさまは、荘厳な仏壇をしばらく拝むと、私たちを振り返った。
いつものチャーミングな表情ではない。凛とした国見家当主の顔だ。
「今度のことで、私も少し考えました。」
両親から一段下がったところに座っている私に向けられた言葉だ。
「巌さんも、もう決して若くはありません。」
「おいおい、お母さん。私を年寄り扱いしないで下さいよ。」
「もちろん、今日明日どうと言うことではありませんよ。」
おばあさまはほんの少し表情をやわらげられた。それが私の方には向けられない。
「天音さん、あなたは将来どうなさるおつもり?」
「私は…。」
「今までずっと先延ばしにしてきました。急にここで言いきれと言うのは酷かもしれないけれども、あなたの覚悟を聞いておきたいの。」
「あなたが将来好きなことをできるように、私たちはあなたにお茶もお花も踊りも授けました。あなたには国見家を継いでもらわなくてはなりません。踊りとお花。どちらを選ぶの?」
「おかあさん、これにだって考えがあるでしょう。無論、他の道もあるわけだし…。」
「いいえ、天音さんにはこの道しかありません。だってあなたは、野乃香ちゃん以外の子をお嫁さんにもらえないでしょう? お花か踊りか、いずれかをできる、国見家を継いでくれるお嫁さんを。
それならあなたが名代になるしかないのです。」
「そ、そのお嫁さんの話も…。」
父が思わず膝を進めた。
「私はもちろん野乃香ちゃんが嫁に来てくれたら、こんなに嬉しいことはないと思いますよ。でも、天音にも、好きな子がいるかもしれないじゃありませんか。」
私はぼんやりと父を見上げた。父は踊りにしか関心のない人だと思っていた。
こんなふうに、私をかばっておばあさまにはむかってくれることがあるのはとても意外だった。
「おまえも何とかいいなさい。あんなにあっさりヒスイを上げてしまって。家宝なんて物は又新たに作ればいいにしても、野乃香ちゃんを惑わすようなことは…。」
「あら、私もお母様に賛成ですわ。天音は、好きな女の子はいないと思います。」
母の言葉がずきりと響いた。
見透かされている。確かに私には好きな女の子はいない。
私が神かけて好きと誓えるのは、天にも地にも慎吾ただ一人だ。
「さあ、天音さん。」
「私は…、踊りには長いブランクがあります。とてもお父さんのお弟子さんたちを凌ぐほどの実力はありません。
それに、お父さんの踊りはお父さんの物です。息子だからと言って継ぐべき物ではないと思います。
どちらかを選べとおっしゃるなら、お花とお茶を選ばせて頂きます。」
私は深く頭を伏せた。詰問はここで切り上げて欲しかった。
「いや…、それはいい、おまえが好きなことをすればいいんだ。だが、結婚は…ここで我々が決めることでもないだろう。」
父の声が私を追いすがってくる。私はぎゅっと目を瞑った。
確かに添うというなら、野乃香は打ってつけだろう。彼女なら、今までのように、空気のように扱える。
しかし、結婚は私の全てを捧げることではないのか。私の全てはもう、慎吾に捧げてしまってあるのだ。
それを、突然、こんな両親と祖母と、無言で見つめる先祖の前で晒さなければならないのだろうか。
私は深く息を付いた。腹の中に冷たい石がずっしりと下りてきたような感じがした。