2004年 8月 8日(日)

カミングアウト

沈黙が私を取り囲んでいる。私は膝の上の握りこぶしをさらに握った。いつのまにか掌に汗をかいている。

「私には…好きな人がいます。」
やっとこぼれた小さな声。傍らの父がほっとしたように息をつくのが伺えた。
だけどこの優しい父だって、その名前を告げたら仰天するに違いないのだ。
「できれば…野乃香との縁談は、なかったことにしていただきたい。」
おばあさまと母とが顔を見合わせるのが分かった。

「天音さん、あなたがこの家を継いで下さる意志に変わりはないのでしょう?」
「はい。」
「それでは単刀直入に伺います。あなたと、その、…あなたの好きな人。その間に、子供はできますか?」

頭を殴られた感じがした。
おばあさまは、全て分かっていらっしゃるのだ。
その上で、私に…野乃香を選べといっておられるのだ。

「あなたが国見の家を継ぐと言うことは、あなたきりで終わることを約束するものではありません。
あなたの血を引く者をこの世に誕生させる責任をも持つと言うことです。」

私の血を引く者…。考えなかったわけではない。
連綿と続くこの家柄の、私が一人っ子だということだって、本来ならば考えられないような椿事であるのだ。
私はかすかに母を恨んだ。もう一人二人、私に兄弟を与えてくれたなら、私一人がこのような苦渋の選択を迫られることもなかったのに。
だが同時に、私は知っている。
母にとって、私を産むのでさえ精一杯だったのだ。
母は私を産む前に流産を経験している。
私を産むことは、母にとっては命がけだったのだ。

「子供は…できそうもありません。…いえ。
できません。…絶対に。」

やっと搾り出した。父が隣で息を飲むのが分かった。

「そんな、…おまえたちがどんなお付き合いをしているか分からないが、まだ結婚もしていないうちから絶対なんてことはありえないだろう?
もし、そのお嬢さんの健康がすぐれなくても、今はいい医者も治療法もあるのだか ら…。」
父の言葉が途切れた。母が袖を引いたのだ。
それで、父の顔色が変わった。

「…お嬢さんじゃ、ないの か ?」

父の身を置いている世界ではけして珍しいことではない。
私だってそういう人に、直に会った事もある。
父が気付くのが遅すぎるくらいだ。いや。

父は、私にはまっすぐ普通の道をたどって欲しかったに違いない。

私は顔を上げた。まっすぐ仏壇と、その前のおばあさまを睨みすえる。
これから告白しようとすることは、恥ずかしいことではない。恥じることでもない。
普通とは違うかもしれない。でも、私の真実であり、偽らざる私の全てであるのだ。
それでも、…声が震えてしまうのは、そばに慎吾がついていてくれないからかもしれない。

「私が愛しているのは、たった一人、慎吾だけです。
すでにこの身を全て捧げ尽くしました。捧げてももらいました。
私はすでに慎吾の妻です。他に娶る妻はおりません。」

膝の前に、指で三角を作るような形に手を置く。
そうしてその三角に、鼻を埋めるような気持ちで腰を折る。
ああ、それもこれも、おばあさまと、この両親に授けてもらった作法だ。
私はこの優しい3人に慈しまれた全ての事柄をもって、彼らを裏切ろうとしているのだ。

「ですからどうぞ、私の跡取は期待しないで下さい。
お腹立ちなら放逐して頂いて構いません。
どうあっても、これだけは、曲げられません。」

裸一貫で転がり込んだなら、慎吾は私を受け入れてくれるだろうか?
国見家と言う巨大なバックなしの私を。

「…なにもそんなことを言っているのではありません。
天音さん、顔をお上げなさい。
私だって、家も大事ですが、孫のあなたの幸せがなにより大事なのですよ。」

少しの沈黙の後、おばあさまの柔らかな声がかけられた。
声に驚きが混じっていないところを見ると、やはりおばあさまは全てを知っておられたのだろう。
私は静かに顔を上げた。しかし、隣で固まっている父の様子が痛くて、とてもまっすぐにそちらを見ることができなかった。