2004年 8月 9日(月)

おばあさまの訪い

窓の外が白々と明けて行く。
私は静かに顔を上げた。結論を言い渡されないまま開放された私に、追ってきついお叱りを与えられそうで、一睡も出来なかったのだ。
腰を浮かしかけて、思わず畳に手を付いてしまう。
一度も崩す事なくきっちりと正座していた足が、太股まで感覚を無くしている。
こんなに痺れを切らした事など何年ぶりだろう。思えば幼い頃には、お花や踊りを教わる際に真っ先に難関として立ちふさがったのは、この正座だった。

父やおばあさまのお稽古は、年齢を数えない厳しさがあった。末弟である私は、いつでも火のぬくもりが届かない末席の板の間に座らされた。
特に踊りのお稽古はいつでも素足で、真冬など、歩くだけであかぎれがしそうに冷えた板の間は、幼い頃には酷く辛くて、私は泣いてばかりいた気がする。
だが、泣いてしまえば鋭い叱責が降りかかってくるのだ。父は踊りの場では鬼だった。舞扇で冷たさに腫れ上がった手を叩かれて、私は幾度唇を噛み締めた事だろう。それでもどうしても漏れてしまう嗚咽は、辺りのほんの少しだけ年上だった兄弟弟子たちの失笑を買い、そして私自身の自尊心を大きく傷付けた。

私が泣いてすがれるのは母の懐だけで、私は何度も、お花もお茶も踊りも、もう止めてしまいたいのだと訴えた。
その度に、困ったように笑う母は、いつでも同じ事を私に言い聞かせてくれた。
「天音さんは、このお家の跡取り息子なのだから。」と。

「今はお稽古もお作法も厳しいばっかりでしょう? でもね、天音さん、今頑張っておけば、きっと後で天音さんはお二人に感謝するようになりますよ。」と。
母の言葉は本当だった。確かに私は二人と、いつでも懐を広げて受け止めてくれた母にも感謝をしている。
だが、同時に、それらの事実が私を締め付けるのだ。

ほとほととふすまが叩かれて、声が掛けれた。
「天音さん、入ってもよろしいかしら。」
「おばあさま…、どうぞ、お入り下さい。」

いよいよ来るべきものが来たのだと、私は体を固くした。強ばった正座のまま立ち上がれないでいると、するすると襖が開いた。廊下に膝を突いたおばあさまは、手ずからお膳を捧げ持っておられた。

「顔色が悪いわ。昨夜はお休みにならなかったのね。お食事にもいらっしゃらないし。あなたは本当におじいさまによく似ておいでだこと。」
綺麗に裾を裁いて座られると、おばあさまは私の前にお膳を置いた。柔らかく炊いたお粥に、とろりと葛あんが掛けられている。その他のお菜も私の好物ばかりだ。
しかし今の私には、それらは胃痛を引き起こすだけだった。

「…申し訳ありません、おばあさま。食欲がありません。下げていただけますか。」
「まあ、せっかく百合子さんと私とで、あなたのために一生懸命作ったのですもの、少しでも召し上がっていただかなくては駄目ですわよ。」
おばあさまはにこにこと笑うと首を傾げられた。どうなさったのかと思うと、私の顔を覗き込んでおられるのだった。
「天音さん、野乃香ちゃんとの結納はいつに致しましょうかしら。結婚は先でも、お約束だけはちゃんとしておかないと、久遠院様にも失礼だから。」
「おばあさま…そのお話は…。」
私はぎゅっと背中を強ばらせた。

野乃香の自宅である久遠院家は、家よりも更に旧家だと聞いている。実際結納を交わさなくても、話を持ち掛けるだけで、それは動かしがたい事実になるだろう。
「あら、どうして? 野乃香ちゃんはお嫌い? あの子は私たちのお話を受け入れて下さってよ。」
「嫌いではありません。でも、彼女は妹みたいなものです。女性に対する愛情は…持てません。」
「愛情など、持つものではありません。育むものですよ。」
「それでも私は…そんな不誠実な事は出来ないのです。野乃香にも、慎吾にも…。」
おばあさまは、正座の膝の上に、両手を重ねて乗せられた。私ははっとして背筋を伸ばした。
昔から、大切な話をなさろうとする時の、おばあさまの癖のような姿勢だった。

「それと同じセリフを、私は50年前にも聞きましたよ。あなたはお顔だけじゃなくて、気質までおじいさまにそっくりでいらっしゃるのね。」
そうおっしゃると、おばあさまはゆっくりと微笑まれた。自分の中の美しい思い出を目の当たりにしたような笑顔だった。
「あなたには、おじいさまのお話はあまり致しませんでしたわね。
私も結婚は、親に決められたものでしたの。当時はそれが当たり前だったし、私の家にも事情があって、私は拒むすべなどないと思っていました。でも、おじいさまは、最後の最後まで、私との結婚によいお返事をなさらなかったのよ。私は…名目だけの妻でした。」
名目だけの妻という、淋しい響きが、私の耳を打った。私は不躾にも、思わずおばあさまのお顔を凝視してしまった。いつでも穏やかで可愛らしいおばあさまには、そんな話題は酷く不釣り合いのようだった。
「私には兄がいましたの。本当だったら当主として国見の家を継ぐ筈だったその兄が亡くなった…いえ、諦めが付いたのは、終戦を迎えて5年目。私が18になった時でした。」
おばあさまは小さく息を付くと、私の顔を目を細めてご覧になった。