2005年 1月 15日(土)

母のなれそめ

朝から冷たい雨が降っている。
私は暖かい寝床から窓の外を窺って、2度寝をすることに決めた。
やがて雪にもなろうというこんな冷たい冬の朝に、用があるわけでもないのに早起きする必要もない。
それなのに、不精を決めこんだ私の布団をゆさゆさと揺する者がいるのだ。

「天音ちゃん、天音ちゃん。」

私は寝ぼけ眼を瞬いた。どうやら野乃香だ。
そう言えば野乃香は、朝には滅法強いのだったか。

「天音ちゃんたら、起きて〜。野乃香、この間の結納のお写真持ってきたんだから〜。」
「なんです…。写真なんて、一人で見ればいいでしょう…。」
「いやーん、天音ちゃんの意地悪〜。おばあさまが天音ちゃんにも見ていただきましょうっておっしゃっていたんだもん。
ねーえ、早く起きて〜、だ・ん・な・さ・ま♪」

一瞬にして全身にさぶいぼが立った。
思わずがばりと起きあがると、野乃香が華やかな笑い声を上げた。

「きゃあ、おばあさまのおっしゃったとおり!
天音ちゃんはきっと野乃香が旦那さまって呼べば飛び起きてくれるって!」

…どうやら野乃香というよりは、おばあさまにしてやられたようだ。


しぶしぶ起き出した私は、着替えると、居間へ降りていった。
そこには野乃香とおばあさま、そして母が、にぎやかに写真に見入っている。

「まあまあ、本当にいいお写真になりましたこと。
天音さん、感謝しなさい。こんなにきれいな花嫁さんなんて、めったにいらっしゃいませんよ。」
「やあだ、おばあさまったら。天音ちゃんだって物凄くステキです〜。
天音ちゃんくらいきれいな人、女優さんにだってそんなにはいないよ〜。」
…それは誉め言葉か?
私が首を捻っていると、お茶を啜っていた母がほうとため息をついた。

「でも、お二人とも本当にきれいねえ。
私も…若い頃を思い出してしまいますわ。もっとも私の若い頃はこんなに綺麗ではなかったけれども。」
「そんなことありません〜、おばさま、今も昔も、変らずお綺麗よ。」
すかさず野乃香がヨイショする。
母は取り合わず、ホホと小さく笑って、おばあさまを向いた。

「私たちの結納の時には、こんなに落ちついた顔はしていられませんでしたわねえ。」
「そうねえ、百合子さんも巌さんもとっても緊張なさっていて。親の私の方がおろおろしてしまいましたわ。」
「おばさまの結納のお話? 聞きた〜い!」
野乃香が身を乗り出した。やれやれ、女3人寄るとかしましいとはよく言った。
私は仕方なくそこに腰を落ちつけて、写真を見ながら母の話しに耳を傾けた。

「おばさまは、おじさまとはどうやってお知り合いになったの? お見合い? 恋愛?」
「そうねえ…、お見合い恋愛とでも言うのかしら。
私はもともとフラワーアレンジメントをかじっていたのだけれども、大学のサークルの先輩に、ものすごく素敵なお花の先生がいらっしゃると聞いて冷やかし半分にこちらの門戸を叩いたのが始まりかしら。
だから私は、お父さんに惹かれたというよりは、まずお母さまに惹かれたのが事の始まりなのね。」
「へー、そうですか。それは私も初めてお聞きします。」
「…これだから、男の子はつまらないこと。」
思わず口を挟んだ私の言葉に母は嘆息し、それでもどこか嬉しそうに話し始めた。

「それまで習っていたフラワーアレンジメントは、先生も生徒も若い方ばかりだったから、先輩が素敵素敵と口を揃えて言う先生がどんなに素敵でも、きっとうちの先生には敵わないなんて思っていましたの。
だから、初めてお母さまにお会いした時は、なによりびっくりしましたわ。
確かに…私の母ほどの年齢の方なのに、とてもお洒落で、朗らかで、なによりすらりとお美しくて。
ああ、大和撫子というのは、こんなお方のことを言うのだと、私は思い知りましたのよ。」
「まあまあ、あなただって、それは利発で華やかなお嬢さんでしたよ。
パッチリ開いた大きな目がまっすぐに私に向けられていて、なにか気恥ずかしい気分になりましたものよ。」
母とおばあさまは、懐かしそうに視線を交わした。

「その日、初めて使ったのが、春らしい雪柳とチューリップとマリンブルーでね。
なまじアレンジメントの心得があるものだから有頂天になって生けると、全然思うようにいかなくて。
それをそっと直してくださるお母さまの指に、バンドエイドが巻かれていたのが印象的でねえ。
この方は、お花ばかりでなく、家事もきっちりされるのだと思ったら、ますます感じ入ってしまって。
言葉はおかしいけれども、お母さまに一目ぼれしたようなものでしたわ。」
「うーん、野乃香、なんかわかるな〜そういうの。
なんかこの、オーラ?みたいな物? 感じるのよね〜、顔とか姿じゃなくって、その人の仕草の端々に。」

指先のバンドエイドで?
女心はわからん…。

「あらいやだ、持ち上げすぎですわよ、百合子さん。」
「いいえ、本当の気持ちですのよ、おかあさま。」

おばあさまはクスクスと笑っていられる。
しかし、悪い気分ではないのだろう。頬を染められて、嬉しそうだ。

「そうして、すっかり通い詰めているうちに、いつのまにかお花のお免状もいくつか頂いて。
踊りのお稽古に家をあけがちなおとうさんにご紹介して頂いて、なんとなくお付き合いさせて頂くようになって。」
ここまでいうと、不意に母はいたずらなえくぼを頬に浮かべた。

「おとうさんから、結婚を前提とした正式なお付き合いを求められたとき、私は失礼にも、この方と結婚したら、憧れの先生の娘になれるって思いましたの。
だから、すんなりお受けしましたわ。でも、このお話はおとうさんにはナイショ。」
「まあまあ、そんなことなら、私の養女にでもお迎えしましたのに。百合子さんのことは私も大好ですから。」
「いいえ、おとうさんも、私には過ぎた伴侶ですわ。ですから私の人生、すべて玉の輿なんです。」
「野乃香も! 野乃香もおばあさまもおばさまもダイスキ!」
「あらあらまあ、どうしましょ。急に人気者になってしまったわ。」

………なんだか居たたまれない空気になってきた。
こっそり腰を上げて抜け出す私になぞ、女たちは目にもくれない。
そっと居間を抜け出して、廊下でため息をついた。

やれやれ、家庭円満には嫁姑問題が一番の難問と聞くが、家に限ってはそんなこと有り得そうもない。
それどころか、下手をすると、私のほうが追い出されてしまいそうだ。

私が居る居ないに関わらず、明るい笑い声が響いている。
望むところなのだろう…けど、なんとなく空しくて、またため息をついてしまった。