2005年 1月 16日(日)

久遠院翁

雨はまだ降り続いている。ぼんやり窓の外を見ていると、呼び鈴が鳴るのが聞こえた。
おばあさまも母も忙しく立ち働いている。私が出ていくと、そこには慎吾が立っていた。
なんだかこうして慎吾が訪ねてくるのが酷く久しぶりな気がして、私は顔をほころばせた。

「今日はな、プール清掃日なんやって。それで追い出されてん。」
「そうですか。頂きものの美味しいお菓子がありますから、ゆっくりしていらっしゃい。」

誘い掛けると、嬉しそうについてくる。

居間に上げると、おばあさまがいらして、楽しい会話に花が咲いた。

と、平穏無事だったのはそこまでだった。
いきなり野乃香が乱入してきたのだ。

「天音ちゃ〜ん、おじいちゃまがね…、あっ、慎吾ちゃんだ〜。」
「おう、ひさしぶりやな、野乃香ちゃん。」
慎吾は愛想よく野乃香に挨拶している。
しかし私は思わず顔を顰めていた。
野乃香の口から「おじいちゃま」という言葉が漏れたからだ。

野乃香の祖父は代議員である。
過去には大臣も勤めたが、表舞台に立つのは性に会わないなどと言い、今はもっぱら肩書き無しの代議員を務めているという。
しかし、それがどう言う意味をもつ事かは、想像に堅くない。
事あるたびに、派閥に自らの名字をつけるような大物議員たちがこぞって野乃香のじいさまを訪れる、そんな地位なのだ。
私も、野乃香と遊びまわっていた幼い頃には散々可愛がってもらったが、にこやかな微笑の底に白刃を呑んでいるような鋭い視線を、幼い私にすら向ける、コワイ人だった。

「野乃香…久遠院翁がなんだとおっしゃっているのですか。」
「こんな雨でたいくつでしょうから、お茶を一幅たてて頂けませんかって〜。」
「お茶ぐらい…野乃香がたてて差し上げればいいでしょう。」
「あら、せっかくだから、慎吾さんと一緒に行ってらっしゃい。久遠院のお家は拝見するだけでもとても素晴らしい物ですよ。」

ああ、と私は嘆息する。
この世の中で野乃香のじいさまが頭が上がらない人がいるとすればたった一人、我が家のおばあさまなのだ。
そのおばあさまが言い出したことであるならば…これはもう決定事項と言うことだ。
慎吾はなんにもわかっていない顔で、野乃香につられて腰を上げかけている。
おまえの品定めをされるんだぞ、慎吾…。
私も仕方なく腰を上げた。いずれは通らなくてはならない道ではあるのだ。



久遠院の表玄関を通された慎吾は目を見開きっぱなしだ。
野乃香の部屋のある別棟なら通されたことのある慎吾でも、母屋の方ははじめて足を踏み入れるからだ。
国の重要文化財にも指定されようと言う、古い趣のある家屋には、それ一つで家が買えるような壷や掛け軸が無造作に飾られている。
そして、その博物館のような廊下を進んだ先に、久遠院翁ご自慢のお茶室がある。

野乃香がしとやからしい声を掛けて開かれたお茶室の中には、すでに久遠院翁が待っていた。
鶴のように痩せた翁は、野乃香にこの上なく優しい瞳を向け、私と慎吾に鋭い一睨みをくれる。
「おや、そちらの方は…?」
「慎吾ちゃんだよ、おじいちゃま。天音ちゃんのお友達の。」
「おお、ではそちらが、坊のご盟友か。」
「はじめまして。桜庭 慎吾いいます。以後よろしゅうに。」
「おお、なかなか闊達なよい青年ではないか。」

私は肩を竦めた。この、さも上機嫌な柔らかい声が曲者なのを、私は十二分に知っている。
表面上は決して声を荒げることのないこの老紳士が、いともたやすく人の生き死にまで牛耳ってしまうことは、れっきとした事実なのだ。
隣にきちんと正座した慎吾がキュッと肩を竦めた。

「なんや、優しそうなじいさまやないの。」
「慎吾…! ご老人の目の前ですよ。」
「ほほ、よいよい。若者はそれぐらい遠慮がないほうがよろしい。
慎吾君…といったかね。よい体をしておるようじゃが、何ぞスポーツでもされておるのかの。」
「はい! 水泳をやってます。次のオリンピックには俺が出ますから、応援してください。」
「慎吾…!」
「ほほほ。大それた事をさらりと言う。その自信と度胸を大切になさい。」

不意に慎吾が姿勢を正した。視線はまっすぐ久遠院翁を見つめている。
「優しい…のやろな、このじいさん。けど…。」
大きな体を窮屈に折って、慎吾は私に耳打ちする。
「なんや、コワイ感じ…ギラギラする刃物みたいな感じやわ。」

私は驚いた。今まで初対面でこのじいさまの素顔を見抜ける人などいなかったのだ。
それは周知の事実であり、このじいさまの密かな自慢でもあったはずだ。
それを慎吾は簡単に看破してのけた。

慎吾の耳打ちは、目と鼻の先のじいさまにもよく届いたのだろう。じいさまの目が各段に細くなった。

「さあ、では坊。美味い茶を立ててくだされよ。」
「…はい、かしこまりました。」
私は静かに腰を上げる。私と切り離された慎吾は一瞬不安な目をした。
いよいよじいさまが、慎吾を見定めようと、牙をむいたのが見えるようだ。