| 2005年 3月 13日(日) |
細い道
乱れていた呼吸がようやく収まってきた。私は慎吾の広い胸にそっと頬を寄せた。
この、けだるい睡魔に襲われる一時を、慎吾のたくましい腕に絡め取られて過ごすのが、私は何より好きだ。
慎吾の大きな手が、私の肩を自分の胸に押し付けるようにギュッと抱きすくめてくれる。
しかしそれは一瞬のことで、今日はその腕がするりとほどけていってしまった。
私に不満のあるわけじゃない、とでも言うように、軽く私の頭をなでて、慎吾はそのままうつぶせに体を返した。
そうして伸び上がると自分の脱ぎ捨てた衣類のポケットからタバコと携帯灰皿を持ち出す。
両肘を突いて上半身を持ち上げた慎吾は、不器用な手つきでタバコに火をつけると、そのままぼんやりした表情でそれをくゆらしている。
3度の飯より水泳が好きな慎吾がタバコを吸うのは珍しい。
ご自慢の肺活量が落ちるといって、めったな事では吸わないのだ。
「…どうしました、慎吾?」
「なにがや?」
「あなたがタバコを吸うなんて、珍しいと思って。」
しかも私がまだ濡れた目をしている、こんな時に。
「うん、まあ、ちょっと、…思うところがあってな。」
「さっきの…神代君のことですか。」
「…ああ。」
慎吾は指先でタバコをもてあそびながら頷いた。
「あいつはな、ハイジャンプがほんま好きなやつなんや。記録的にはそこそこしか出せへんけど、それはまあ嬉しそうに飛ぶ奴なんや。
ハイジャンプなんて、そうたやすくできるもんやないやろ。走るとか、泳ぐとかなら、働きながら趣味でも続けていくこともできるやろうけど、ジャンプとなると簡単にはいかへんよな。
つい最近まで、あいつは大学に進んで、やっぱり陸上部に入って、自己ベストを更新するって、それは楽しそうに言うてたんや。
それを思うと、なんや可哀想でかなんわ。」
「何とか…ならなかったんですか? 推薦とか…学園長に掛け合えば…。」
「むろん、まっさきにしたわ、そんなん。」
慎吾はほとんど吸ってないタバコを押し付けて火を消し、新たなタバコを出した。
「だけどな、事情が決まったのがつい先月のことで、いまさら推薦枠に向けて努力する間ものうて、しかもあいつも俺と大してかわらない成績やし、学業の方での推薦は到底無理。
大好きな陸上も、他人を押しのけてまで大学に入るほどの記録はないということで、こっちも無理やったんや。
だけど学園長もものすご気の毒がってくれてな、大学部への入学金だけは取り戻してくれたんやで。」
学校側としては、それができる精一杯だったのかもしれない。
たしかに、神代君のことだけではない。家庭の事情などで進学できなくなる生徒だって、多少はいるはずなのだ。
「でもな、あいつはそれでええ言うねん。
俺だったらきっとわめき散らして自分の不幸を呪うねんけどな、これで十分やって言うねん。
もともと自分の立場で白鳳は背伸びやったんやって…そんなところに6年間も通わしてもろて、俺や天音に会えただけで幸せなんやって。
これからはご両親に恩返しをしていきたいんやって。」
慎吾は2本目のタバコを散々ひねり回している。
やはり吸い付けないタバコなのだ。苦味ばかりが口の中に残るのかもしれない。
「俺はな、それを聞いて、俺ってなんて幸せなんやろって思うねん。
生きたい学校に行けて、好きな水泳をやって、大好きな天音と一緒にいられて。
考えてみたら、俺が当たり前や思うこんな生活も、できない奴の方がもしかして多いかもしれん。
それなのに、毎日しょうもないことで文句ばっかし言う自分が恥ずかしくなってな。」
「しょうもない…どんな文句なんです?」
「たとえば…寮のおばちゃんが盛り付けてくれた夕飯のサラダが、白雪のよりプチトマトが1個少ないとか、咲良より肉が小さいとか。
後は布団を干した日に限って雨が降るとか、休みの日に限ってトイレ掃除の当番が回ってくるとか。」
それは本当にしょうもない。
「なあ、天音、俺思うねん。
今、当たり前に過ごしてるこの毎日。幸せなのにそれをそれと感じられないこんな毎日って、もしかして研いだ刃の上を渡るようなほっそい道の上なのかもしれへんな。
前しか見てなければずっと当たり前に続くと思う毎日も、ほんのちょっと余所見をしたらまっさかさまに転げ落ちるような頼りない道で、その上を渡り続けていられること自体が奇跡なのかもしれんて。
大体が、天音に出会えて思いが通じたこと自体、大きな奇跡なんやな。」
「………そうですね。」
子供のころ、スイミング教室で初めて見かけた慎吾とこんなに長く一緒にいられるのは本当に奇跡なのだろう。
あの日あそこに行くことさえなければ、生涯の中に接点があるとは思えない二人なのだから。
「でも私は、あなたの意見に全面的に賛成ではありませんよ。」
私は腕を伸ばして慎吾の手からタバコを抜き取った。
ほっぺたを両手で挟んで、私の方を向かせる。そのままそっと口付けた。
「私たちが渡っている道がそんなに細い道だとすればなおさら、私はあなたの手をずっと離しません。
もしまっさかさまに転げ落ちるなら、そのときはあなたも道連れです。
二人でなら、転げ落ちた先でも明かりは見えるでしょう?」
「はは…せやな。」
私の大好きなやんちゃな顔が笑み崩れる。
今の私たちが、慎吾が言うようにそんなに幸せかどうかわからないが、私はこの笑顔を守るためになら、すべての物を犠牲にする覚悟くらいとっくにできているのだ。
改めて慎吾をいとおしく思う気持ちがこみ上げて、私の奥を熱くうずかせる。
私は大胆な気分になって、慎吾の筋肉質な足に自分の足を深く絡ませた。
夜はまだ長い。